信心とまではいかないが

[投稿日] 2016-07-08
[更新日] 2016-07-22

jinja
神社が好きで、よく足を運んでいます。近所の神社にはふだんから散歩がてら行っており、ここ数年は夏と冬の大祓えのときにはパートナーの分も一緒に形代のお焚き上げをお願いしています。

都内の七福神巡りは目下わが家の「コンプリートを目指す!」というレクリエーションになってます。伊勢神宮と出雲大社、両方の式年遷宮に行けたのも素晴らしい経験でした。

信心というより、日常の親しみとして接しているという感覚でしょうか。「そろそろ自宅にも神棚ほしいなー」くらいは思ってるんですけどねぇ。

郷里の新潟は日本で一番神社が多い県だそうで、たしかに小さな祠っぽいところや長いこと放置されてるとしか思えないところなど含めて、神社は「いつもそばにあるもの」だったような気がします。そういう影響もあるかもしれません。

まるで稼げずドン底だったころ、精神的にかなり追い詰められていた期間がありました。心身のケアのために散歩を習慣化したときも必ず神社に立ち寄って手を合わせました。不思議と心が休まるもので、ずいぶん助けていただきました。

いま振り返ってドン底なのでそのあと上向いているのは当たり前なんですが、その経緯も「神社に詣でていたらイイことあった」という記憶になっていて、それはそれで「ありがたいことで」と受け止めています。

神様はいると思いますか?と聞かれたら、私は「いると思う」と答えます。見たことはありません。でもそう考えた方が世界の姿というか自分の心というか、スッキリ収まるんだもの。

なにより、自分より高次の存在を認めて畏れ敬い、こうべを垂れるというのは、人のあり方としてものすごく大切なことなんじゃないかとも思うので。

もう15年くらい前なのかな、アメリカの医療ドラマのワンシーンで、難しい手術に挑む医師がスタッフに向かって「信仰を持つ者はそれぞれの神に祈れ、そうでない者は幸運を」といいました(ちょっと違うかも)。いい台詞だと思います。

では、今日もよい日でありますように。